headache

この頭痛薬はきっと偽薬で効かないだろう。3錠飲んでも脳幹に雷が落ちるような激痛が走り気が狂いそうになる。茶色いプラスチック容器を壁にぶつけて、額の汗を手のひらで拭った。遠くからブーツがコンクリートを叩く音が聞こえ、更に叫び声も聞こえる。けど、その叫び声が誰の声かは分からない。自分の心の声かもしれないし、単なる幻聴かもしれない。いや、隣の独房に誰かいるかもしれない。その正体不明の叫び声の合間に一定の間隔をとりながら、ブーツの音が聞こえる。誰かが彼を狂わすためにあの音をだしているんだと思っていた。「どうして、君はここにいると思う?その頭痛薬を手渡すのは誰だと思う?そもそも、君は自分を誰だと思う?」。たぶん夜だろう。扉が開き、夕食が支給される。彼は抵抗する気力もないまま、ただ叫ぶ。そして、鎖の首輪でにつながれた身体を壁から引き離そうとする。同い年にみえる緑の軍服を着た青年は、無表情のまま固いポテトサラダが入った銀皿を床に置く。そして、頭痛薬をその隣に置く。扉は閉められて独房は闇の世界に戻る。ラベルには米国産とあるが、何の薬だか書かれていない。勝手に「頭痛薬」と呼んでいるだけであって何の錠剤なのかは分からない。

独房のなかで彼は考える。もう長くはもたない。そして、どうしてここに居るのかが分からない。いや、ここに居る前にどこに居たかが思い出せないから、自分がどこに居たいのか分からない。だから、自分はここで生まれたんじゃないかと思う。けど、それはあり得ない。彼は後頭部に大きな傷があり、それが比較的新しい傷であることを知っていた。あの軍服の男たちはネオナチか何かで、きっと自分は優等生でレジスタンスであったに違いない。高貴な抗議デモの途中で鉄パイプか何かで瀕死の重傷を負ってここで捕らわれているのだ。そうに違いない。「きっと間違ったことはしていないんだ。だけど、ここに居るんだ。だから、正しいのだ」。錯乱する意識と声のなかで、1文字1文字辿るように、自分の正気にその言葉を叩き込もうとする。「ボクハマチガッテイナイ」。ポテトサラダを口に入れてすぐに吐き出す。

ジープを走らせながら、どうやったらその若い男を独房から救い出せるか考えていた。その男はもちろん独房にはいない。東京の整然としたアパートで月50万を払ってプロのジャンキーになっているだけであって人の妄想が画面に映し出される時代において、彼のバッドトリップは単なる厄介な案件でしかなかった。退屈な妄想ほど抜け出すのは難しい。単純な妄想ほど精神エネルギーを使わないから心はその世界に癒着しやすい。最後のドラッグを腕に打つ前に、全財産を私の口座に振り込み治療を予約して逃げた。先に治療代を払って、死ぬか、生きるかを医者に託し、物理的世界から逃げだしたのだ。打つケミカルの種類を丁寧にデータにして、メール添付してきた。もちろん簡単に解ける方程式ではない。そして、それらは簡単に購入できる代物ではなく、彼のように馬鹿で金持ちの親がいるから成立する。ジープは夜の森に入っていく。考えなければ。独房。声。軍服。頭痛薬。ポテトサラダ。ストーリーとイメージだけがモニターに映り、彼がこの世界に戻るのは絶望的だ。
後ろからついてきた助手と硬直した彼を荷台から降ろす。深夜の研究所には誰かいるわけはなく、診察室から自分たちで担架を一度外に持ってくる。何が起きるか分からないので、一応拘束バンドで縛って奥へ運ぶ。助手は深くため息をつく。金曜日の深夜だ。ジャンキーの戯言に付き合う時間帯は過ぎている。

− こんな奴捨てて帰りませんか。

丁寧かつ静かに独り言のようにつぶやく。窓の外から月光が反射する海がみえる。リゾート地なのに起きていることは重苦しい。

− そうはいかないし、多分100年考えても答えはひとつだ。私たちにできるのは、本当の頭痛薬を届けるだけ。そして、その頭痛薬はきっとこれだ。

壁の棚から緑の小瓶をとりだす。悪夢を取り除く薬。抜け出せない妄想にもっと巨大な妄想を注入して、狂気を正気に戻す薬。

− 要するに人体実験に付き合えと。効かなかったら彼はもっと苦しむことになる。それならば、このまま海や森に捨ててしまったほうがいい。

こんなやり取りを遠い昔にしたような気もする。殺すか。あるいは、狂わして生かすか。緑の小瓶にはレモンの香りがする水色の液体。それを注射することは、誰にでもできる。これが治療なのか。注射の準備をする。

− 聞こえていますか。

一応話しかける。反応はない。仮に薬が効いてこの世界に戻ってきても、トリップ前とトリップ後の彼の意識がマッチングする確率は低い。軍服やポテトサラダは、一体何を象徴しているのだろうか。考えても仕方がないのだけど、つまり大きな力に強制的に捕らわれて、そのなかで柔らかい乳房にも似たものに接して、出口をみつけないで迷子でいたいのだ。

− 彼が戻ってきても何も喋り掛けるなよ。

− はい。喋るつもりなんて最初からありませんよ。早くやって、早く帰りましょう。教授。

細長い注射器に水色の液体を入れて、彼の頸動脈に刺す。

扉が鈍い音をたてて扉が開く。彼はかろうじて目を開く。

− 釈放。出て行け。

軍服の青年がまるで機械人形のように命令する。

− 釈放だ。起きろ。出ろ。

首輪はとれている。軍服の青年は彼を強引に廊下にだす。そして、今度は自ら独房にはいり、扉をロックした。その途端、廊下の奥から大量の液体が流れてくる。その液体の刺激臭を嗅いだ途端、何かを思い出した。でも、その感覚はすぐに消えて、液体の中で溺れていた。軍服の青年の顔を思い出した。あれは自分の顔のようにも見えたけど、でももう自分の顔すら知らない。これから自分はきっと溺死するが、それが本当の自分なのかも知らない。薄れゆく意識のなかで、白い乳房を思い出した。あの売春宿であの白い乳房をみたとき、僕は狂う決心をした。そんな記憶が蘇ってきた。この刺激臭。あの太股。でも、もう遅かった。不思議と頭痛はとれていた。