三上晴子 『Worid Membrain - Disposal Containers』 : 不気味なものを保存する

ラディウム−レントゲンヴェルケで開かれた三上晴子 『Worid Membrain - Disposal Containers』で不思議な作品に出会った。実験動物の死骸、放射性廃棄物、注射針などが、原色で不透明のプラスチック製の容器たちに詰められ、更にその容器たちは、透明プラスチックのキャリーケース(のようなもの)の中にギッシリ詰め込まれていた。死骸や注射針は外からみえないし確認できない。ただ、ケースやバックに貼られた英語のステッカーでそのように書かれているだけだ(「触るな!危険:放射性物質」のような)。鑑賞者は中にそれらがそこに在ることを想像するしかない。そもそも、そのステッカーやキャリーケースが実用されているものかすら分からない。重さも軽さも分からない。作品のなんとも言えない不気味さが、何日も頭の片隅に残った。

「検索」して新しい何かを探し、右クリックしてそれらをひたすら「保存」する毎日。自分たちが「保存」したものは、きっと自分たちよりも長く生き残る。重くもなく、軽くもなく、腐らず、錆びず、それらはここに半永久的に在るだろう。プラスチックと2進数で作られたデータは似ていて、唯一無比の本物であると同時に、それぞれ根本的には同じ方程式で作られたフェイクだ。
フロイトは、「すでに投げ捨てられたはずの古い信念の正しさ」が現実になると人のなかに「不気味なものという感情」が生まれるという。*1

わたしたちは誰もが、個人としての発達段階において、原始人のアニミズムに相当する時期を経験してきた。このアニミズムの段階がわたしたちのうちにさまざまな残滓を残しているのであり、それはときにふれて必ず外に現れてこざるをえないのである。

幽霊なんているわけがないのに、ふと何かのきっかけでその存在を感じてしまうような不安。科学的に立証されていることがくつがえされるかもしれない不安。三上のプラスチックたちは、この先も生き続けるし、きっとアクリルなどの絵画よりも長く保存され続けるだろう。兎や注射針などが「在るかもしれない」容器たち。私たちは死ぬけど、彼らは死なない。なぜなら、彼らは人間ではないからだ。けど、彼らが一度アートや「作品」として昇華されると「不気味」な存在感を保つようになる。
原子炉の廃棄物を70メートル以上地下に埋めて、10万年掛けて国で管理するという狂気のニュースが流れる世界に生きている。きっとずっとそうだったのだろう。三上晴子は、世界がその「不気味さ」に耐え切れなくなるのを、静かに予見していたに違いない。*2

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三上晴子展 “Worid Membrain: Disposal Containers”
2016年8月19日(金)〜 30日(火)
ラディウムーレントゲンヴェルケ

*1:フロイト、『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』 (光文社古典新訳文庫

*2:唐突だけど、歳をとって死について頻繁に考えることは自然なことだと思う。未だに自分がいつか死ぬことが信じられない(大丈夫か?)。死への恐怖はあるけど、それと同時に興味もある。一体どんな体験なんだろう。どんな後悔をしながら死ぬのだろう。本当にくだらないことばかり考えるものだ。不老不死なんて苦しいに決まっていて、長引いた現実に飽きてしまい、死ねないことに苦しむ日々を過ごすのだろう。拷問に近い。だから、寿命というのは上手くできた科学なんだと思う。人生は100年できっと充分なのだろう。もし、僕達が永遠に生きるとすれば、それは恐怖でしかない。