『暇と退屈の倫理学』: 二重のジレンマ

『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎 著)を読んだ。哲学クラスタじゃない自分は、アーレントハイデガーの名前が出てくるだけでビビッてしまうけど、本著は安心して読めた。分かりやすく書いてあるだけではなく引き込まれるように書いてある。

暇と退屈の時間がたっぷりある、いまの自分がいかに恵まれているか再認識した。しかも、その時間が仕事中にあるのだから、労働しながら「自由の王国」を作り上げてしまっている(それでいいのか)。自分に少し嫌気がさしたw同時に本のなかで紹介された第三形式→第一形式の悪いサイクルに入っていることも自覚した。記号消費に嵌り、浪費とはあまり縁のない生活をしていることも当て嵌まる。

「疎外と本来性」や「環世界」について読んだときに「病人の焦り」と「健康人の退屈」について考えてさせられた。

「焦り」と「退屈」は別モノだ。たとえば病人の焦りは、健康人の退屈とは別世界にある。自分が病人だったとき、街を歩くひとのスピードが早送りのようにみえた(自分の動作が遅く、脳がうまく機能していなかったからだ。)1年がまるで1ヶ月のように感じた。かつて健康であった自分が別人のように感じた。自分が自分の「本来性」から疎外されている(ように感じた)のだ。本著の言葉をかりると、「環世界移動能力」が著しく低下し自分の本来性を取り戻すことだけに囚われてしまっていた。そんなときに「今日は退屈だ」という内なる声は聞こえない。治療に専念している自分は幸福かといえば、そうではない。どこかで「暇」や「退屈」を感じる余裕のある自分に戻りたいと思っている。しかし、回復しても本著で紹介されてるような退屈のジレンマが待っている。
すべてはコンディションや条件に依拠するかもしれないけど、本来性を追う(追ってしまう)ことには変わりない。しつこいジレンマ。その衝動や構造についてもっと知りたいと感じさせてくれる一冊に出会えた。

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学