『イケムラレイコ うつりゆくもの』: 少女・旅人 

東京国立近代美術館で「うつりゆくもの」を観てきた。日本を離れ、欧州で活躍しているイケムラレイコの回顧展。会場は全部で15セクションに分かれていた。そのなかで一番印象に残ったのは第4セクション「横たわる人物像/Lying Figures」だった。ほのかな照明のなか、テラコッタ6体、油絵2点が配置されている。すべて少女(幼女というべきか、、みたところ5−6歳だ)をモチーフにした作品。テラコッタの少女には頭部と脚部がなく、スカートの真下から首根っこまでスッポリと空洞になっていた。油絵で描かれた少女は紅色の背景に溶け込み、明確な輪郭は消えている。『銀河鉄道の夜』のように此岸から彼岸へ旅をしているかのような、不思議なクォリティを持つ作品ばかりだった。

同じ日本人で少女をモチーフにする画家、たとえば奈良美智kaikai kikiのobとイケムラを比べてみる。前者が描く少女には、アニメやマンガを彷彿させる日本独特のキャラクター性を感じ取ることが出来ると思う。実際そのキャラクター性は、彼女らの作品のおおきな魅力でもある。イケムラが描く少女には、こういったキャラクター性はない。むしろセザンヌの浴女に近い。例えば、1997年に描かれた《横たわる少女》をみてみよう。灰色の洋服を着た少女が、画面を横断する黄色い光の上に横たわっている。背景は漆黒の闇に覆われている。目、口、指などの細かいパーツは省略されている。けれども画家の素描力から、ぼんやりと浮かび上がる四角いフォルムが「少女」であることが鑑賞者に伝わってくる。*1 逆に「少女」を抽象絵画を観る目で観てみる。すると、「四角いフォルムの集まり」にもみえてくる。イケムラが描く少女は、主体(少女というイメージ)と客体(抽象絵画的フォルム)の狭間を揺れる幽霊のようだ。
さらに支持体のジュート(黄麻)もこの特徴を活かしている。ジュートの網目は、麻キャンバスに比べて粗く大きいため、画面に近づくたびに私たちは視点を網目にフォーカスしてしまう。そのため、詩的なイメージ(幽霊のような少女)と物質(ジュート)が私たちのなかで揺らぎながら同期されていく。

少女たちは、イケムラレイコの自画像でもあるのではないだろうか。長年異国人、そして女性として活躍する画家は安定や安住を求めていないかもしれない。ある鼎談で、イケムラは幽霊のような少女を描く理由について次のように語っている。

・・私は自分の視点から思春期前の少女たちを描こうとしました。過去に男性たちがしたように理想の女性像を表すのとは異なり、私の絵はより内面的な生を表そうとしています。
幼少期をを思い出します。まだ幼いながら社会に加わっていき、そして習慣的な原則と期待、世界との折り合いかたを学んでいく困難が、少女たちにはあります。とても繊細な時期だと思います。(拙訳)*2

1985年に描かれた《思考》は、新表現主義を代表する画家フランセスコ・クレメンテの模写のようにみえる。そこには前述の幽霊のような作品が放つ繊細さはなく、むしろ男性的な攻撃性を感じ取ることができる。*3どのように画家独特の繊細な表現を取り入れていったか、この回顧展では、その痕跡を辿ることができる。


イケムラレイコ うみのこ  写真 森本美絵

イケムラレイコ うみのこ 写真 森本美絵

うみのこ

うみのこ

*1:タッチや色彩は大きく異なるが、セザンヌの他にニコラ・ド・スタールの作品にみる人物像に似ていると思う。

*2:「女性として、アーティストとして、海外で生きる理由」イケムラレイコ Side B(http://www.momat.go.jp/Honkan/Leiko_Ikemura/sideb/)

*3:この時期について、「当時ドイツにはバセリッツ、キーファー、リヒターのようなパワフルな男性画家がいた。男性世界への挑戦として80年代に巨大な絵を描いた。」(拙訳)と語っている。「女性として、アーティストとして、海外で生きる理由」イケムラレイコ Side B(http://www.momat.go.jp/Honkan/Leiko_Ikemura/sideb/)