中島晴矢 「ペネローペの境界」

阿佐ヶ谷TAV GALLERYにて、中島晴矢 「ペネローペの境界」を体験した。被災地の除染作業やテロリズムによって瓦解する世界の普遍性について、作家が真正面からぶつかった展示だった。

入口近くにある『Walk this way』は、エアロスミス・Run-DMCの同タイトルの曲とは対極的に、ポップでもアッパーでもなく、無音のなか、壁のように積み上げられたフレコンバック(汚染土壌を格納する黒い袋)の前を、赤い服を着た1人の女性がひたすら歩き続けるビデオ作品。こんなにストレートに外部(非当事者の立場)から、原発事故の作品を扱ってよいものかと一瞬とまどった。しかし、実はその違和感も作品の一部なのだと思う。パンフレットに、作者自身のことばで、「所詮、東京者の、「観光客(東浩紀)」の視点で。」と記されている。意図的に、あえて第三者として、フレコンバックの山の威圧感や異常さを撮ったのだろう。

奥の部屋の右側には、大きなテキスタイルの作品『New World Border』、正面には、ビデオ作品『ペネローペの境界』、その手前には、足踏みミシン『UNIVERSALISM』、背後にはインストレーション『オデュッセイア』がある。作家は、古代ギリシャ叙事詩オデュッセイア』と自ら被災地で感じたことを、複数のメデュウムを用いてリンクさせる。それは、こじつけでもあり、妄想でもある。しかし、アートが成功しうる瞬間は、その個人のこじつけや妄想に鑑賞者が引き込まれてしまう瞬間にあると思う。その意味では、この部屋の展示は成功していた。

『New World Boarder』は、スベスベな表面をした現代的な作品である。各国の国旗が、迷彩のようなパターンで交じり合っている。柳幸典の『アント・ファーム』のように、国の境界線の曖昧さを問う作品にみえたが、その不気味さは、室内隅に展示されている『Endless Loveless』との対比によって際立たされていた。『Endless Loveless』は、オデュッセウスの妻、ペネローペが織ってはほどき、ほどいては織った「フレコンバックの生地」の作品だ。手作業で織られたデコボコで、漆黒の生地と対峙するのは、機械的に処理されたようにスベスベで色鮮やかな複数の国旗たち。自国の重い現実の黒さと、わざとらしいほどに人工的で鮮やかな国旗たちの不気味さの対比は、遠い距離で起きている現実に目を背けつつ、あきらかに絶対性が瓦解している自国の現実にも対峙できない現代の不安定さを表しているように思えた。

入口の『Walk this way』で歩いていた赤い服の女性が、『ペネローペの境界』のなかでは、足踏みミシンでフレコンバックを織っている。彼女がペネローペだ。夫オデュッセウスの「イラク戦争」からの帰還を待って、フレコンバックを織っては、ほどいている。フレコンバックを織り終わってしまうと、「ゴロツキ」である求婚者たちのひとりと結婚しなければいけないというのが、作者の物語だ。ループするこのビデオ作品のなかで、ペネローペは唄をうたいながら、延々とミシンを踏んでいる。そのミシンの実物が、『UNIVERSALISM』という題名で展示されている。「普遍(Universalism)」から完成「しない」フレコンバックを織り続けている。彼女は虚構であるが故、実物のミシンの前にはいない。後ろを振り向くと、白い砂浜に巨大なフレコンバックとオデュッセウスの首が置いてある。『オデュツセイア』と呼ばれたこの作品にも、虚構と現実の間を行き来する不気味さがある。都内の画廊に置かれた巨大なフレコンバックの中身は何なのか?そしては、苦悶の表情のオデュッセウスは、ループするペネローペを見つめながら、何を想うのか。

作品は、創らないと創られず、ゼロであれば作品ではない。けれども、ゼロ以上の何かが「作品」になってしまうとき、そこには「居心地の悪いわざとらしさ」が生まれるときがある。今回の展示には、それはなかった。あくまでもゼロに近い、けれども、ゼロではない物語を紡ぐことに成功している。複雑なリンクとレイアーで仕掛けられた不気味さが、作者の問題意識と共鳴して、物語を立体化させている。

中島晴矢 個展「ペネローペの境界」[ 6/26 (fry) – 7/12 (sun) ]
http://tavgallery.com/nakajima/