『コンタクト』 砂のことば、希望のことば

久しぶりに観たけど、やっぱりすごくよかった。この映画のなかで電話、メモ、トランシーバー、テレビ、メール、いろいろなツールと言葉(英語)を使ってする他者とのコンタクトとあの浜辺でエリナーにしかわからない妄想による、あるいは現実の宇宙人(父親の姿をした)とのコンタクトはまったく異なるものなんだよね。前者はいわいるコミュニケーションであって、伝達方法と伝達目的がはっきりしているフラットな世界。後者は「言葉にならない」経験であって、確かに言葉で会話はしているけれども、それはコミュニケーションという枠には収まらない個人的な経験。もちろん宇宙人と話すとかありえないことなんだけど、エリナーは潜在的に死んだ父親と宇宙で遭えるという捩れた想いを持った人で、極限状態でその夢が現実と感じただけかもしれない(映画のなかで、実際それが妄想か現実かは明らかにされない。)エリナーは、この「伝わらないし、伝わるはずがないコミュニケーション」について葛藤してきたキャラクターだけど、ラストシーンですごく穏やかな表情で地面の砂を手にのせる。砂は言葉を持たないのだけど、あの幻(あるいは惑星ベガ)の浜辺の砂を思い出して、理屈を超えた誰だかわからない彼(父?宇宙人?妄想?)とコミュニケーションをとる。テロの時代でいろいろ起きているなかで、すこし前向きに捉えれば、つまり言葉には限界があるのだけど、言葉を超えたものには限界はなく、それは「想像力」であると。最後は、エリナーの想像力が彼女の心に平安をもたらした。政治的で言葉が通じない世界で、何に希望があるか、『コンタクト』というコミュニケーションに関するSF映画はみせてくれると思ったのであります。大事なことはいつも言葉にはならないし、ツールも変換してくれない。素晴しい映画です。