Hidari Zingao 『中村一美:社会意味論』を読む

新作2点を含む5点で構成された中村一美の個展が、中野ブロードウェイ内Hidari Zingaroで開催されている。Kaikaikiki Galleryの展示と比べると作品のサイズは小さいが、Hidari Zingaroでは、より近い距離で作品が鑑賞できる。

米オルタネイティブ・バンドのパールジャムが、自分らの祖父たちより年上でもおかしくないキース・リチャーズの魅力について、「とにかく彼の演奏はファンキーなんだ」と語っていた。音楽の知識がないので何がファンキーなのか技術的な説明はできないが、彼らの言っていることは、なんとなくわかる。キースの演奏には、複雑なコード進行がないのに、記憶に残る意外性とキャッチーさが混和してる。「ブラウンシュガー」のイントロ。♪チャッチャ!チャッチャチャチャ〜チャ!

中村一美の絵画にも、そんなファンキーさがあると思う。例えば、艶やかなパープルのうえを走る弾丸シルバーや下層に隠れてゴーストとなった線の上を走る生き延びた線。キャンバスの側面まで滴り落ちるビビッドなオレンジやペパーミントの下地。
でも、そんなペインタリー享楽にだけ浸っているだけでは、今回の展覧会のサブタイトル「社会意味論」の意味はわかりそうにもない。

中村は、2002年の論考「ソーシャル・セマンティクスとしての絵画」のなかで、自身の絵画を「抽象」でも「具象」でもない「Social Semanticなレヴェルを扱う絵画」と記している。*1 そして、フォーマリズムの文脈でのみ解釈されることを拒んでいる。

社会意味論(Social Semantic)としての絵画とは何か?

たとえば、先の国立新美術館の展覧会で展示された『Negative Forest (ストライプへの欲望)Ⅰ』(1993)は、ベトナム戦争時の米軍の枯葉材作戦に抗議している。*2ポップ・アートやミニマリズムで頻繁に使われたストライプという手法的シンボルが、画面背面にイメージされている森を隠している(排除している・殺している)。

同展覧会の『ユガテⅢ(Social Semantics 11)』(2002)では、埼玉県西部にある「桃源郷」と称される山里、ユガテを描かれている。しかし、それは美しい「風景画」でも、画家個人の「心象画」でもない。中村は前述の論考で主張する。「隠れ里でもあり、桃源郷でもあるこの実在の場は、現実の暴力や死に満ちた世界との対比においてのみ真の意味をなす。」*3 画家は、ユートピアが創りあげられるのは、ディストピア的現実のカウンターである事実を描出している。

ロバート・マザウェルの「スペイン共和国への挽歌」シリーズのように、なぜ絵画の表象が根底にあるテーマや物語とつながるかは、鑑賞者には分かりづらい。しかし、実際に我々はひとつの物事に対して多様な解釈(意味)を保有しながら生きている。その多様性の幅を意識しながら、世界や出来事への画家独自の解釈を載せた表現が社会意味論としての絵画であると理解している。

Hidari Zingaroの展示は、5点。 1)鳥、2)絵巻、そして3)ユガテの3種類のモチーフで構成されている。

まず、入口正面の『狂死する鳥の絵画』(2004)。2001年から2004年に描かれた「織桑鳥」シリーズのひとつだろうか?「狂死」というわりには、画面は大人しく、静謐な雰囲気の作品だ。目立つ筆跡もなく、ソイルでできた背景に黄色い線で描かれた鳥が翼を広げている。画家は、「織桑鳥」について西欧における「不死鳥(フェニックス)」のことではなく、現代における時にはネガティブで予期できないエネルギーを一度完全に破壊し、異質なものとして姿を変え、再生したものとしている。

仮にこの作品が「織桑鳥」シリーズのひとつだとすると、この鳥は前世を含めると2度目の死に直面している最中にいる。再生したのに、改めて遷化するほどの絶望とは何であったのだろうか?制作年数である「2004年」から考えると新潟県中越地震のことを思い出す。また、スマトラ沖地震が起きたのも同年だ。画家は、東日本大震災の経験を基に、新たに「聖」シリーズを描き始めている。この「聖」シリーズを展示せず、「災」がその年の漢字であった10年前の日本の「織桑鳥」を呼び戻すことによって、過去の社会意味論的な試みが今でも活かせる、つまり、逆にいえば、過去の苦しみは繰り返されていることを表したのかもしれない。

『狂死する鳥の絵画』の右側に『絵巻IX 』、『絵巻VIII 』(共に2014)、左側に『ユガテI 』、『ユガテII』(共に2001)が展示されている。

絵巻は、『紫式部日記絵巻』のように、斜線によって空間を表して、西欧絵画の垂直-水平によって構築される空間に挑戦している。今年描かれたこの2作が、展覧会に向けて制作されたならば、金・銀・紫という色のイメージは、狂死する鳥に対する聖典(レクイエム)をイメージしていると考えられないだろうか。

ユガテは先述のとおり、「桃源郷」とその場所を「桃源郷」と成す負の条件を表しているようにみえる。1つ1つの作品のなかで、そして両方の作品を比べても、2つの異なるエネルギーがぶつかっている。そして、中村が考案した「開かれたC型」により、視線が斜めと水平方向に誘導されて、まるで山里を歩くような奥行きを画面に感じる。すべてを均一なエネルギーで支配して単一性のオーラで輝かせる抽象絵画ではなく、エネルギーにズレを生じさせて、鑑賞者の目を泳がせることによって主題の感覚を訴える社会意味論的絵画だ。

以下は、完全なる私見だが、今回の展示をこのように読んでみた。
唯一、清閑な佇まいの 『狂死する鳥の絵画』は、実は一番深い哀しみと苦しみを含んだ、2004年から舞い戻ってきた「今の日本」の織桑鳥であった。その左側にある「ユガテ」は、繰り返される日本の災害の闇と光の現状を 織桑鳥の代わりに代弁し、「絵巻」は、聖典(レクイエム)として織桑鳥を支えている。画家の絵を観ていると、そういった物語を紡ぎたくなるような情熱に巻き込まれる。
(展覧会は、10/2(木)まで中野ブロードウェイ Hidari Zingaroで開かれている。)

*1:中村一美展』 国立新美術館 p.128

*2:中村一美展』 国立新美術館 p.128

*3:中村一美展』 国立新美術館 p.128